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ヨーロッパ恋愛紀行
恋愛心理学小説
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カレル大学医学生イリーナ①
その日は第二の女性イリーナと会う日だった。1時にミュージアム前の有名な像のところで待ち合わせをしていた。街の中心に立つその像は、観光や待ち合わせ場所として有名で、その日も多くの人で賑っていた。
僕は約束の10分前に像の一角に立った。プラハ3日目ともなるとその像はすっかり見慣れたものになっていた。あいかわらず人は多い。目の前の地下鉄の駅からは絶え間なく人が出てくる。僕はそんな人の流れをボーっと見ながらひとりで突っ立っていた。しかしイリーナを探しているわけではなかった。なぜなら僕はイリーナの顔を知らないのだ。今回のアポを取った4人の女性のなかで、イリーナだけが写真を送ってくれなかった。メールではいつもあっさりとかわされていた。もちろん僕の写真は送ってある。だから彼女が僕のことを見つけるのだ。ちゃんと見つけられるだろうか?ちょっと不安になる。いや、ちゃんと見つけれるはずだ。そもそもプラハで僕のような東洋人は目立つ。
そう自分に言い聞かせてはみても、顔のわからない相手を待つというのはあまり良い気分ではなかった。
そういえば日本の出会い系サイトではよくこういうことがあった。お互いに写真を見せずに待ち合わせする。一応、見た目の特徴は言ってある。身長とか髪型とか。それで相手を見つけるのだ。もちろんそんなので簡単に相手が見つかるはずはない。待ち合わせ場所にいる女にかたっぱしから声をかけてみる。自分の好みなのがいるとそれであってほしいと思って声をかける。だいたい違う。そんなに都合よくいかない。たいていはメールのときの予想と全然違うのだ。でも間違った相手といろいろ話しているうちに気が合って、その女性の待っていた友達と一緒に、つまり3人で出かけることも何度かあった。そういうのもありなのだ。日本では・・・。
プラハではどうだろうか?そう思ってまわりを見渡してみた。有名な場所だけありたくさんの人が誰かを待っているようだ。プラハらしくスタイルのよい美女が多い。これは悪くないかもしれない。イリーナが来なかったら誰に声をかけようかと妙な期待を持つ反面、いや彼女はまじめな医学生だから絶対に来るという、どっちに転んでも楽観論だけが僕の頭のなかで回っていた。そしてときどき笑い出しそうになるのをじっとこらえていた。ひとりで作戦遂行していると、時としてどうしても笑い出したくなることがある。ひとり旅をしたことがある人ならわかると思う。想像ばかりがひとり歩きするのだ。しかしこの場で笑い出すとろくな結果にならない。イリーナは声をかけてくれないだろうし、周りのプラハ嬢たちにも相手にされないだろう。そしたらその日の行き場がなくなってしまう。それはまずい。絶対にまずい。
ふと正面を見ると、こっちをじっと見ている女がいる。妄想はたちまちにして消え去り、一気に緊張感に変わった。僕はかなり焦った。いつから見てたんだろうか。そして何とかアメリカ田舎風の『目が合えば誰でもとにかくスマイル』をその彼女に見せた。彼女はそれでも表情を変えずに一歩近づき、こっちの目を十分に見つめた。そしてようやく僕の名前を呼んだ。
電話ではとっても背が低いと言っていたのに、165センチ程あるらしい。チェコではそれでも『とっても』がついてしまうのだ。もちろん僕にとってはそれくらいの背の『低さ』は問題にはならない。初日に会ったソニアがやたらと背が高かったから、イリーナの身長は僕にとって少しほっとさせるものがあった。
彼女はチェコ女性らしく乳白色の肌にブラウンの髪、そして上品そうなエメラルドグリーンの瞳をしていた。しかしそれ以上にチェコ的だったのは彼女の着ていたワンピースだった。地味な薄いブルーだがスカートの裾がひざのずっと上にある。ひやりとした形のよい脚が無防備に並んでいた。なかなか良い。こういったファッションを目の前にすると男としての緊張感が高まる。僕は自然な手つきで彼女の手の甲にキスをし、最上級のあいさつをした。
「あなたのような美しい方にお目にかかれて光栄です」
こういうモードに自然に入れてしまう女性というのはいるものなのだ。

museum_prag
夕暮れ時のミュージアム前広場


さっそくイリーナの大学に行くことになった。彼女はチェコ最大のカレル大学メディカルスクールに通っている。大学で生活する僕にとって世界各国の大学は立派な観光地になる。旅行先ではなるべく大学を訪れるようにしている。大きな大学だとその国への影響力が大きいし、それに大学生を見ればだいたいのその国の雰囲気がわかるというものだ。
カレル大学はそこから歩いて行ける距離にあるらしい。とは言っても観光客が行かない住宅街の方向だった。僕たちは古い石畳の道を並んで歩きながら、お決まりの初対面会話を進めた。最初はまず、お互いにうち解けた状態にならなければならない。このプロセスは歩きながらというのが理想的だ。歩いていれば彼女との距離も位置も変えられる。自分が前に出たり、先に行かせたり、彼女に顔を向けたり、横を見ながら話したりといろいろだ。ダンスで女性をリードするのと同じで、自分の体すべてを使って会話の流れをエスコートできる。言葉だけのコミュニケーションよりもずっと早く相手とうち解けることができるのだ。特に初対面の女性にはあらゆる手段を尽くして優しくリードしなければならない。これができる男としていちばん求められることなのだ。
イリーナも僕も元々は英語圏の人間ではないが、英語でコミュニケーションするわけだから共通の文化基盤としてまずアメリカ文化がくる。だから最初はアメリカ流に会話を進めがなら、次第にお互いの文化を出していく。特に今回は彼女の国にいるわけだから、彼女の持っているチェコ的なノリをちゃんと受け入れなければならない。英語だからといってあまりアメリカ式だけで強引に押し進めると、結局彼女にとって僕はただの西側の外国人の1人ということになってしまう。せっかく彼女の国にいるんだから彼女のチェコ的なノリも理解し、その上で彼女と共通の話題、共通の価値を見つけだしていくくらいの高度な共感性を発揮したいものだ。
一緒に歩きながらイリーナの方から会話が進むなんてことは期待できなかった。ソニアと同じでこういうところはチェコ的なのかもしれない。もちろんそんなときは僕がひたすら話す。本当に何でもよかった。プラハの街並みがきれいなこと、プラハ城のツアーガイドがおかしかったこと、フライドチーズがおいしかったこと、イリーナのファッションがすてきなこと、など。とにかく沈黙をつくらないで話し続ける。そうしながらときどき簡単な質問を彼女に振る。そして彼女の答え1つひとつに大げさに賛同する。どこの国でも基本は同じだが、おとなしい相手には先にこっちの考えていることを全部見せてしまえばよいのだ。

そうこうしているうちに15分ほどで大学に着いた。ここら辺一帯が全部そうなのよ、と、僕との会話に慣れてきたイリーナは手を大きく伸ばしながら言った。そこには北米の大学のような広大なキャンパスはなく、プラハ市内のどこでもありそうな白くて赤い屋根の重厚そうな建物が並んでいるだけだ。でもよく見るといちばん大きなビルの入り口には赤地に白の十字のマークがついていた。どうやらそこが大学病院らしい。
僕が医学部らしい場所が見たいと言ったら、イリーナは解剖学の校舎に連れていってくれた。そこには人間の骨や臓器などの貸し出しカウンターがあり、学生はそこで好きなパーツを借りて自由に閲覧?観察することができるらしい。僕たち2人はその閲覧室にこっそり入っていった。その建物内は妙に静かで、白衣を着た学生がときどき音を立てずに歩いていただけだった。異様なほど緊張感がただよう場所である。
「写真とっていいの?」 僕は遠慮がちに、ささやくような声でイリーナに訊いてみた。
「・・・ちょっと聞いた方がいいかもね。どこ撮るの?」
そう言うとイリーナは人体標本貸し出しカウンターに行き、そこで何やら話していた。すると白衣にメタルフレーム眼鏡をした神経質そうな男が出てきた。院生か助手といったところだろう。閲覧室にいた学生のほとんどが何事かという感じでこっちを見ている。
僕は一転してニューイングランド風のスノビーな英語に切り替えてその男に説明した。イリーナも横からチェコ語で話してくれた。白衣の男は声を出さずにうなずき、すぐに標本室の外に歩き出した。ここでは無駄な言葉は慎むべきだと言わんばかりだった。
「教授のところに許可を取りにいくのよ」 イリーナがこっそりと英語で僕に言った。
ちょっとそこまでするなら・・・と思ったがもう遅い。白衣の男は姿勢を正したままどんどん歩いていってしまう。そのうしろ姿はとても止められそうになかった。
僕たち3人は2階の学部長室らしきところに入った。巨大な机の向こうには、立派なひげを生やした男がドヴォルザークの肖像画のような威厳をただよわせて座っていた。何を撮るのか?何で撮るのか?何者なのか?イリーナを通して質問してくる。適切な答えを探して頭を高速回転させようとしたところ、イリーナが僕の返答を待たずに勝手に答えてくれた。結局、標本自体を撮るのではなければ後は何を撮ってもいいということになった。そりゃどうも。答えは予想通りだったが迫力はぜんぜん違った。さすが元共産圏だ。学生たち異様なほどまじめで教授にはとても従順だ。ある程度は予想できたが、さすがに目の前で見るとちょっと驚く。
結局それで一気に脱力してしまった。せっかくだから写真をいくつか撮るだけ撮って僕たちは大学を出た。

prag_univ
解剖学の図書館にて.建物内の様子もプラハっぽい.

続く・・・




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カレル大学医学生イリーナ②
それから大学の近くにあるイリーナ行きつけのカフェに行った。そこは学生が居座るにはちょうどよいくらいに雑然としていた。僕たちはその中でもいちばん静かそうな奥にあるロフトの席についた。
イリーナはようやくそこで自分のことについていろいろ教えてくれた。彼女の場合、マッチ系サイトのプロフィールでもメールでもあまり個人的なことを明かしていなかったから、そこでは本当に自己紹介のような会話になった。出身はプラハからちょっと離れた場所(名前は忘れた)ところで、今はルームメイトと大学の近くに住んでいるということだった。英語講師のバイトをやって生活費を何とかしているみたいだが、最近プラハは地価が上がってなかなか大変みたいだ。そしておもしろかったのは、今までつき合った相手はみんな外国人で、マッチ系サイトでも僕の前にすでに1人の男と会ったことがあるみたいだった。それもメキシコからプラハに来た男ということだった。
「でも、本当にただ会っただけよ」 イリーナはちょっとまじめな顔してそう言った。「ディナーを一緒にしたけど、それだけ」
でもそんな遠くから来た男に会ったというのにはちょっと驚いた。もっともその男は医者だったらしく、学会でプラハに来ていたらしい。だから医学生の彼女が会う気になったというのも納得がいくような気がするが・・・。それにしても学会で外国に行く医者が、出会い系でしっかり行き先の女をチェックしてから出かけるというのがおもしろい。さすがメキシコ人というところか。でもこんな医者がいても楽しくていいと思う。日本の医者や学者も海外の学会に行くときにこんなことするようになるだろうか?学会に行く楽しみが増えていいと思うが。

カフェを出てから僕とイリーナはモルダウ川まで行き、そこから川沿いに歩いた。ときおり秋の深まりを感じさせる冷たい風が通り過ぎていった。10月のプラハは夏の観光シーズンよりはかなり落ち着いているらしいが、モルダウ川を含む旧市街はまだ観光客で賑わっている。川沿いの道にはすでに人の流れができていた。僕たちはその流れに乗ってカレル橋を渡ることにした。しかし橋の上はあいかわらず人があふれている。
プラハ人はすごく混雑した場所のことを「カレル橋のようだ」 と言うが、一度この橋を渡れば十分に納得できる。団体で立ち止まって写真を撮っている観光客があちこちにいて、その度に立ち止まったり大きく迂回しなければならなかった。僕たちはそんな人々を縫うようにして歩いていった。2人で並んで歩くにはとても理想的な場所とは言えない。必然的にイリーナの手を取る。彼女を先に行かせたり、僕が先に行ったり、右に避けたり、左に避けたり。彼女の手を前に出したり、ちょっと持ち上げたり、こっちに引っぱったり、ぐっとにぎったりしながら、人混みのなかを歩いていった。僕のリードの感覚がすぐにつかめたらしくイリーナはちゃんとフォローするようになった。そうなったら2人で歩くのもそれほど大変ではない。どんなに混んでいても団体が写真を取っていても、僕たちは手をつないだままきれいにすり抜けながら歩いていった。ときどき急に人が飛び出してきたりするが、僕たちは熟練したダンサーのように歩調を変えることなく巧みにかわした。そんなとき彼女はとても楽しそうな笑顔を見せた。
たまにアジア系の団体を見かけた。あれは日本人かしら?とイリーナは訊いてきた。彼女たちにとってはアジア人の観光客はすべて日本人と思うらしい。かつてのヨーロッパではそれも正しかったかもしれないが、最近は景気の悪い日本よりもほかのアジア(特に中国)からの観光客のほうがずっと目立つようになってきた。しかし彼女が見分けられないのもよくわかる。なぜならアジア系観光客は見た目だけでなく、行動パターンまで似ているのだ。僕にだって難しい。その時も韓国人大学生風の10人くらいのグループが「地球の歩き方」そっくりのガイドブックを持ってがやがややっていた。しっかりブランド物のカバンを持っている。韓国語を聞かなかったら僕だって見分けがつかない。

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イリーナと.後ろはモルダウ川.

僕たちはカレル橋を渡ったところでレストランを探すことにした。その日はまずディナーを食べてからコンサートに行く約束になっていたのだ。橋のたもとには観光客目当てのレストランが多かった。なるべくそういったところを避けようと思ってしばらく歩き回った後、やっと良さそうなレストランを見つけた。日本でもときどき見かける洞窟のような内装のレストランだった。まだ開店したばかりのようで他に客はいない。うす暗い店内では僕たちの着いたテーブルにだけロウソクが灯された。いい感じだ。騒がしい観光地からそんな静かなレストランに来るとホッとする。
イリーナはうつむいてじっとメニューを見ていた。そして僕はそんな彼女のことを見ていた。スラブ系のきめ細かな白い肌がロウソクのオレンジ色に照らされてほんのり暖かく色づいていた。まるで濃厚なミルクティーのようにしっとりとして柔らかそうな肌だった。見ていると現実感を失うほどだ。旅行をしていると目の前のことが現実として受け入れられないことがある。そんなときふと自分は遠くに来ているんだと実感する。うす暗いレストランの壁にはロウソクに照らされた彼女の影がゆっくりと揺れていた。
しかし、それにしても長い。彼女はまだうつむいてメニューを見ている。そんなに時間をかけてメニューを選ぶのがチェコ流なのだろうか?あるいはそれが礼儀なのかもしれない。簡単にメニューを選ぶのは失礼なことだとか・・・。違う国の女性といると意外なことは日常的に起こる。こんなときどうすればよいのか困る。とにかく声をかけてみた。どう?イリーナ、決まった?
それを待っていたように顔を上げた彼女は言いにくそうにこう言った。「このサーモン頼んでもいいかしら?」
「・・・もちろんだよ。どうして?」
「これってこの中でも結構高いのよ・・・」
それでようやくわかった。ディナーをおごるっていうのがメールのときからの約束だったのだ。値段を見ると700円くらい。チェコのディナーとしてはかなり高い。
こういうとき僕が困る。なんだ安いじゃん、なんてことは言えない。物価の高い西側の人間にとってはチェコのものは何でも安く思えて当然だが、そこで経済感覚の差を見せつけるなんてことはしない。なぜなら僕はただの観光客だからだ。もしこの土地で彼女たちと同じように働いたとしたら彼女と同じくらいしか稼げないだろう。
いろいろな国をまわっていて思うが、日本ほど人件費がばか高いところはない。特に労働者クラスの賃金だ。アメリカでは賃金階級がはっきり別れていて、所得の低い層は日本の低所得層より低い。中国では日本と同様の仕事を何分の1かの賃金でする。そしてチェコの高学歴層の収入は日本の労働者層収入よりずっと低いのだ。
その点で考えれば、経済のグローバリズムはもっと進んだほうがいいように思う。とりあえずこのような格差は少なくなるだろう。彼女のように英語とドイツ語とチェコ語の医学論文をしっかり読みこなすほどの優秀な人間はそれなりの報酬を得てしかるべきだと思う。サーモンなんて気にしないでどんどん食べればいいんだ。
「ノープロブレム。今日は特別さ」 僕は何も考えていないふりをして答えた。
そして同じようなものを注文した。

続く・・・


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カレル大学医学生イリーナ③
ディナーの後は約束通りコンサートに行くことにした。僕たちは橋を渡って観光街に戻り、あちこちで配っているコンサートのビラをたくさんもらった。どれも当日の夜のもので、観光客目当てらしくモーツアルトやバッハの有名な曲が目立つ。それにしてもすごい数のコンサートがあるものだ。こんなにたくさんのコンサートをどこでやるのか不思議に思った。イリーナに聞いても行ったことなくて知らないみたいだ。ソニアもそうだったが、プラハの住民は観光客の行くところには行きたがらない。
ヴィヴァルディとバッハのバイオリンコンチェルトがメインのものを見つけたのでそれに決めた。場所はコンサートホールでなく教会だった。なるほどこれなら旧市街のいたるところでコンサートを開けるはずだ。

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これ全部コンサートのピラ.値段も規模もいろいろです.


階段状になった教会の入り口に小さなデスクを置いてそこでチケットを売っていた。そこでイリーナはチケットを2枚買ってくれた。学生チケットで値段は300円程だ。学生証を見せろと言われるかと思ったが、イリーナがちょっとチェコ語で何か話したらそれでOKだった。日本の映画館とは違うらしい。それともプラハ市民用のレートが特別にあったのかもしれない。
そこは小さな教会で、入るとすぐに礼拝堂だった。観光客ばかりといっても教会だけあってみんな静かにしている。見渡してみるとほとんどが白人だった。こそこそ声で話しながら前の席から詰めて座っていく。イリーナと僕は真ん中ほどにある長椅子に並んで座った。
周りで聞こえるのは僅かに椅子がきしむ音と、後ろの席にこれから着こうとする人の控えめな足音だけだった。それらの混じり合った音がよりいっそうの静寂をつくる。高い天井まで広がる空間がすべての音を溶かしてしまうようだった。これからミサが始まるみたいな感覚で、ささやき声さえ出すのも抵抗があった。
でも僕はどうしてもイリーナに話しかけたかった。せっかくの一度きりの夜なのに、黙って音楽を聴いたまま時間が過ぎていくというのは残念な気がした。イリーナはどう思っているだろうか。隣に座っている彼女をそっと見てみた。この静けさに同化したように動かない。背筋をまっすぐに伸ばし薄目を開けてぼーっと前を見ている。かたちの良い耳だけがこっちを向いていた。
僕はそんな彼女の耳にそっと顔を近づけてみた。すると、びっくりしてこっちに顔を向けた。いきなり顔を近づけたら驚くにきまってる。今度はイリーナと目を合わせたままゆっくりと耳の方へ顔を近づけていく。ぎりぎり聞こえるくらいの小さな声で話しかけながらだ。今度は大丈夫。耳もとまで行けたら、ささやき声を彼女のかわいい耳に入れた。
「イリーナ、その耳とてもキュートだよ・・・」
そのときオルガンの音でコンサートが始まった。バッハのトッカータとフーガだ。女の子といるときになぜかいつも不安な気持ちにさせる曲だった。とくに教会で聴くと強烈だった。パイプオルガンの高周波が頭の奥まで響きわたる。
実際にオーケストラは2階にいるらしいが、僕たち観客のいる1階からは見えない。つまり観客はオーケストラのいない礼拝堂に向いたまま、頭上で奏でられる音楽を聴くということになる。最初はとても無防備な感じがしたが、実は僕たちのようなカップルには悪くないということに気づいた。それまでコンサートやプレイを観に行くと、かならずステージに視線が注目してしまうため、女性と一緒に行く意味など純粋な意味ではないと思っていた。コンサートが良ければ隣にいる女性のことなど忘れてしまうし、ひどいコンサートのときに限って隣をずっと感じ続けられる。それに比べ、その教会のコンサートは見るべきものはない。聴くだけである。彼女と見つめ合っていたって得られるものは同じなのだ。
ヴィヴァルディのオルガンソナタが続いた。
イリーナの方をそっと見てみた。気持ちよさそうに目を閉じ両手をきちんとひざの上に乗せている。ブラウンの髪からちょっとのぞいた敏感そうな耳で、この美しい音楽を十分に聴き取っているようだ。同時にこっちを向いたその耳で僕のことを警戒しているようにも見えた。
その耳が僕の気持ちを探知したのか、イリーナはいきなり目を開けてこっちを見た。一瞬僕と目を合わせたが、いつもながら恥ずかしそうにして下を向いてしまった。僕はイリーナの視線を追った。そこにはミニスカートからきれいに伸びた彼女の脚があった。薄いベージュのストッキングに包まれた脚はスカートの青色とは対照的だった。わずかな隙もなくきちんと閉じられているが教会の長椅子の上ではとても刺激的に見えてしまう。僕の手は、美しいものを手に取ってみるように自然にそのスカートに伸びていった。
曲はモーツアルトのアダージョに変わっていた。ビブラートを派手に効かせたストリングスがゆっくりと響き渡る。
イリーナは反射的に短いスカートを押さえた。両手でしっかりと。そして「もう!」、という表情をして僕のことを見た。もちろん真剣に怒っているわけではない。僕は「違うよ」、と言うように、まず彼女の目の前で手のひらを見せた。それから人さし指をすっと立てた。アメリカ式の『ちょっと待って』、のジェスチャーだ。今度はその指をスカートを通り越してひざの上までゆっくりと持っていった。彼女の手はスカートをガードするように裾のところに置いたままだ。僕は人さし指で、ストッキングに包まれたひざの上に文字をなぞっていった。つめを引っかけないようにそっとだ。
『この曲は好き?』 最後のクエスチョンマークを特別にゆっくりと書いた。
イリーナは目を大きく開けて、書き終わったひざをしばらく見つめていた。それからこっちを見て、わからなかったというように首を振った。ウェイビーな髪がかわいく揺れる。
僕はもう一度、彼女のひざの上に同じ文字を書いた。さっきよりゆっくりと。
今度はわかったようで、彼女はうん、うん、とうなずいた。もちろん声は出さない。
僕は続けてこう書いた。
『この曲を聴いているきみの横顔が最高にきれいだよ』
僕の指先を真剣に見ている表情は本当にきれいだった。書き終わったらイリーナはちょっとはずかしそうに微笑んだ。
後は続けてどんどん書いていった。もちろん全部伝わるなんて思っていない。部分的にでも伝わればそれで良い。もともとコミュニケーションなんてそんなものなのだ。言葉に出してみても本当の気持ちなんてそんな簡単には伝わらない。言葉以上の僕の気持ちが指先からイリーナのかわいい脚に伝わればいいと思った。
最初、大文字だけを使っていたが、そのうち小文字も混じるようになった。アメリカの大学でのテスト採点を思い出し、アメリカ人女子大生のかなりくずしたハンドライティングに似せて書いた。同じアルファベットを使う女子大生だからその方がわかりやすいはずだった。そういえば日本には書き順なんてものがあったことを思い出した。中1のとき、アルファベットの書き順が違うといって先生にひどく怒られたことがあった。それ以来僕はわざと間違った書き順で書くようにしたものだった。あの先生ならもっと正確に気持ちを伝えることができるというのか。あの先生ならアメリカの一流大学で何を教えれるというのか?大学生のハンドライティングを読解することすら無理だろう。まあ、実践で英語を使うことのない本人はそれで問題ないだろうが、まだ言語獲得に比較的センシティブな子供時代をこういうバカによって無駄に使われてしまった方はたまったものではない。こんなバカ教師の半分以上をクビにしてネイティブを採用すればよいのだ。チェコみたいに。だから日本人はいつまでたってもまともに英語を使えないのだ。ずいぶん昔から言われているのになかなか変わらない。そして国際的に活躍できるレベルの人がみんなその苦労を背負い込み、低レベルの教育しか受けられなかったハンディに一生悩むことになる。いったい誰が責任取るのだ。
ふと気がつくと、曲はヴィヴァルディのバイオリンコンチェルトに変わっていた。
Dマイナー。アレグロなヴァイオリンはとても耳になじむ曲だった。ずっと遠くに置いてきた記憶がよみがえる。
東京の大学生だったころCDで何度も何度も聴いた曲だった。手放せずアメリカ留学に持っていったが、他のCDごと盗まれた。ステートポリスの盗難アイテムリストのいちばん上に書いた記憶がある。しかし正確な曲名がわからず、その後CDを買えないまま諦めたのだった。もうすっかり忘れていた。何年後かに、このような場所で聴くまでずっと・・・。
大学生の頃の彼女との日々がフラッシュバックした。彼女はバロックにはそんなに関心がなかったが、僕の好きなこの曲だけは何度も聴かされているうちに好きになったみたいだった。激しく、そして哀しい、僕の学部時代を象徴する曲だった。
しかしその教会で聴いたヴィヴァルディにはかつて求めた激しさはなかった。そのかわり教会らしい柔かみに包まれていた。演奏者の違いだけだろうか、それとも自分が年をとったからなのか。でも、僕にとって特別な曲であることには変わりない。
『この曲のCDを昔持ってたんだけど、クラスメイトのアメリカ人の女が僕の部屋に勝手に入ってきてCDとかその他いろんなもの全部盗んでカリフォルニアに逃げた。州が違うと警察はなかなか動かないから、僕は弁護士と私立探偵を雇って彼女の実家にはりこませ、ついに潜伏場所を突き止めてカリフォルニアの州警察を動かした。裁判になってもその女はpleaded not guiltyを続けたけど、陪審員が全員こっちの味方についたため、ようやく取引に応じて罪を認めた。でも結局高額なものは最後まで知らないと言い切ったし、その他のものもほとんど返ってこなくて賠償金を取っただけに終わった。それでこのCDも返ってこなくて、それ以来ずっと聴いていなくて、いま久しぶりに聴いてすごく感動してるんだけど、イリーナはこの曲良いと思う?』 と、僕は彼女のひざに書いた。
イリーナはとてもまじめそうな顔して僕のことを見た。そしていたずらっぽく笑ってから今度は僕のひざに書き始めた。
『・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・』
何書いてるんだか全然わからなかった。僕はイリーナの顔を見つめて肩をすかして見せた。彼女はそうでしょ、と言うように僕の目を見て笑った。
曲はいつの間にかシューベルトのアベマリアになっていた。まったりとしたチェロが僕とイリーナの間にできたやわらかい空気に優しく響きわたる。
僕はイリーナのひざに書き続けた。彼女は目を閉じ、片手を僕のひざの上に置いていた。もう最初のように真剣に読みとろうとはしていない。教会に座り、音楽を聴き、そして僕の言葉をきれいな脚に感じ取っているのだ。僕は音楽の続く限り書き続けた。イリーナに対する僕の本当の気持ちを伝えようと思った。もう2度と会うことのないプラハの女性の記憶に少しでも自分の存在を残せればと思いながら、彼女のきれいな脚に言葉を刻んでいった。
カトリックの巡礼者が行き着く先のスペインの教会のことを思い出した。世界中から集まった巡礼者は、ようやくたどり着いた教会の壁に手を当てる。千年もの歴史のなかで、何百万人もの信仰的な手によって壁のその部分だけがすり減っていく・・・。
ざらざらしたストッキングの下の弾力のある彼女の脚がほんのり色づいているように見えた。

教会を出るとプラハの観光街はすっかり暗くなっていた。僕とイリーナは人通りの少なくなった石畳の道を手をつないで歩いた。プラハ最後の夜だった。僕たちはしっかりと手をにぎっていた。今日会ったばかりだなんてとっくに忘れてしまったように。
僕は暗い道の片隅で立ち止まった。閉店した店のショウウィンドウから少しだけ光が届いている。
「イリーナ、今日は楽しかったよ」
「わたしもよ」
僕は彼女のほほに一度軽くキスして、それからリップに口をつけた。そして顔を離し、彼女の目を見つめながら言った。
「きみが彼女だったら素敵だろうね」
「・・・・・・・・」 
彼女は僕のことをじっと見つめていた。エメラルドグリーンの瞳にショウウィンドウの明かりが映っている。
僕は最後の質問をした。
「日本人と本気でつき合うことってあり得る?」 
「・・・・・・そうだったら素敵だと思う」 イリーナは少しうつむき、そう答えた。
「じゃ、また、次回会えたら・・・」
「・・・・・・・・・」
「また会えるよ」
「・・・うん」
こうやってプラハの3日間は終わった。思った以上にチェコの女の子たちは世間に対してまじめに生きていた。ここにやってくる1万人ものアメリカ人についても少しは理解できそうな気がした。

プラハ3日目おわり






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